福山誠之館高校

徳川幕府老中首座、福山藩主・阿部正弘が日本という国を世界に通用するためには学問が必要で、水戸の弘道館を作った水戸斉昭に書を依頼した。その書は今も学校の古き時代の学校入り口であった建物に掲げられている。中庸の一節「誠は、天の道なり。之を誠にするは人の道なり。
誠は、勉めずして中り、思わずして得、従容として道に中る。聖人なり。
之を誠にするは、善を選んで固く之を執る者なり。」から名前はつけられた。

阿部正弘は、清廉の人で頭脳明晰。中国が清の時代に欧米にやられてしまったことや、アジアがほとんどやられたことを熟知していた。26歳で老中になり、ペリーが来た頃の幕府や日本は、ぬるま湯に浸かってだぶだぶになっているような状況で、将軍家定が浪費したことで、財政は破綻していた。海外の情報を島津斉彬からも得て、徳川の法といわれる家康の法をゆるやかに変えて、日本をうまく導こうとした。攘夷というのは外国をやつけることで、その筆頭が水戸斉昭だった。そこで今の外務省の前身となる海防掛を水戸斉昭にまかせ、息子を皇室との縁談に持ち込むなど政治手腕で喧嘩せずに懐柔した。仕進法という、従来の世襲制で無能力者がのさばるばかりの幕府を立て直すため、能力があるものを引き出す法を作り、福山藩で実行した。数々の改革の中にはキリスト教の布教を許すことや、盟友・島津斉彬からの提案の日の丸を国旗にも採用、お台場の設置、大船製造の許可などなどの他にジョン万次郎、勝海舟、その他の人材を徴用して国を導いた。安政の時代になったのは、大きな地震が日本を襲ったからで、その後江戸も壊滅的な地震があった。体の不調を感じ、生きているうちに急いで改革を進めたのだ。39歳で想い半ばで亡くなってからは、阿部が政治的にうまく抑え込んでいた彦根藩主・井伊直弼が大老となり、水戸斉昭とぶつかり、安政の大獄につながり、結果、幕府は倒され、長州薩摩の仕切る明治政府になり、現在にいたる米国との縁もペリー時代からであり、イギリスやスペインが米国の代わりに来ていた場合は今の世にはなっていないし、阿部正弘があと5年生きていたら明治維新も起こっていない。誠の道とは武士道に通じる、私信を抑え、公につくし、国のため人民のために正しきことを進む道だ。令和元年にどれだけそれが残っているのだろうか。 website

旧校舎の入り口の建物。ペリーから贈呈された望遠鏡や地球儀が中にあるらしい。

2018年の校舎

急な坂を登ると学校がある。

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