世界遺産 醍醐寺 上醍醐 World Heritage DAIGOJI Temple Kamidaigo

醍醐寺の境内は、笠取山(醍醐山)の山頂から裾野まで広がっています。山頂(標高450)付近は醍醐寺開創の地であり、多くの堂字があります。また修験道の修行場でもあり、上醍醐(カミダイゴ)と呼ばれています。

裾野の広大な平地には京都府下最古の木造建築物である五重塔(国宝)など平安時代から豊臣秀吉ゆかりの安土桃山時代の建造物があり、下醍醐(シモダイゴ)と呼ばれています。

これから上醍醐へつながる下醍醐の弁天池から歩を進め、新緑の上醍醐を巡ります。

Flickr(写真サイト)には高画質写真をアップしてあります

写真撮影は木下伸司さん。動画からの静止画はANNA film productionさんです。

醍醐寺の塔頭の一つ成身院(ジョウシンイン)通称 女人堂です。正面には仏様や高僧の像が祀られています。

ここから始まる上醍醐への参道は厳しく、体力に自信が持てない方が、この地から上配醐を遥拝できるようにと、建てられたようです。

登山開始です

ここが千畳敷と呼ばれる槍山の広場の跡で、豊臣秀吉さんの醍醐の花見のメインの舞台です。420年以上経てますから地震などで地形は変わってしまったのでしょう。

醍醐の花見
慶長三年(一五九八年)三月十五日、秀吉は一世の善美を尽くした花見をこの槍山で催した。千畳敷きとも呼ばれる平地には新しい花見御殿がたてられた。又、女人堂から槍山の間には、長束正家をはじめ各武将により趣向をこらした茶屋八棟が設けられた。
この花見にさきがけて山内馬場先から槍山に至る両側には畿内より集めた桜の木七百本を植えさせた。
花見の当日、秀吉は秀頼・北政所・西の丸(淀君)・松の丸・三の丸を従え、山下の桜が一望できる槍山の御殿で花見の和歌を短冊にしたため桜の枝につり下げた。秀吉の栄華を誇る豪華な花見であった。
【保存資料】重文・醍醐花見短籍(一三一葉・霊宝館所蔵) 重文・純浄観(旧花見茶屋・三宝院に移築)

八棟建てられた茶屋の一つ、純浄観は三宝院に今も遺っております。

音羽大王大権現

                                             撮影 ANNA Film Production

 ”昔、この地に天狗杉があり、諸国を遊行する天狗がこの木に腰を掛けて休んだという。しかし大杉が老い腐り、天狗が休む場所がなくなったのを悼んで、昭和十年(一九三五)八月、ここに社殿を建てて、音羽・魔王大権現を祀った 参考文献 楠戸義昭『醍醐寺の謎』(祥伝社)

不動の滝 三宝院から徒歩で33分くらいだそうです。

不動の滝から進むと上醍醐寺務所です。

上醍醐寺務所                                        撮影 ANNA Film Production

国宝 清瀧宮拝殿 

国宝 清龍宮拝殿 

創立は寛治二年(一〇八八)であるが、此の堂は永享六年(一四三四)に再建され現在に到っている。邸宅風の手法を用いたつつましやかで親しみやすい建築で、古風で純粋な伝統的手法が繊細で垢ぬけした姿で活かされており洗練された気品を備え、高く評価されている。

聖宝・理源大師が山上に立てた隠遁場所です。大師は霊力によってこの泉を発見されました。今でもこの霊水を飲むことができます。

醍醐とは、最上の境地を表す「醍醐味」という言葉があるように、最も優れた事を示します。

この説明板に詳しく開山時の由来が書いてありました。

醍醐山の略史

醍醐山は弘法大師の法孫である聖宝理源大師の開創になる。醍醐とは五味のなか最上の滋味といわれ、それは牛乳を精製し酪となし精錬を重ねて出来上たものをいい、弘法大師は真言の教えをして一切仏教の最勝のものであるとし醍醐をもって喻とされている。醍醐寺縁起に聖宝尊師は貞観十六年(八七四)、「未だ令法久住の地を得ず、普明寺に於て仏法相応の霊地を祈念す。その祈請に応えて五色の瑞雲、当山の峰に聳え云々」とあり、また、「師、雲を望み訪ねて嶺にいたり、白髪の老翁来りて草葉をかき分け水を汲んで、喫して曰く、ああ醍醐味なるかなど、その化人なるを知りてこの山に伽藍を建て密法を弘めんとす(広めようとする)。翁曰く、転法輪の勝地、密乗を弘めて衆生を利せよ われ山主なり、永く和尚に献せん」と忽然として消え、そこに清涼な水が滾々(こんこん)と湧き出ていた。後に石を畳んで他日のしるしとす。更に山に大柏樹あり三宝鳥その上に鳴く。その柏樹を伐り梵音加持し「准胝(じゅんてい)如意輪の観世音を刻み堂宇を建立し、翁の言をかりて醍醐寺と名づくとある。延喜の聖帝醍醐天皇の叡信厚く勅願寺となり、山上山下に堂塔が建立された。このあと聖宝尊師の弟子観賢僧正が醍醐寺の第一世の座主となり朱雀、村上両帝は五重の大塔を建立し、旧記によると五百有余の堂宇が立ち醍醐山万代の基盤が確立した。寺史に傑出した高徳を挙げれば、弘法大師の諡号(しごう)奏請に力をいたし高野山の廊窟を開いて親しく更衣し奉った観賢僧正、平安期に三宝院を開基し醍醐山の繁栄をもたらした勝覚僧正あり、また東大寺再建に活躍した俊乗坊重源(ちょうげん)上人も山に住み宋版の一切経を施入し西大谷に湯屋を建て西国巡礼に薬湯を供したという。 足利尊氏が深く帰依した南北朝の歴史に名を留める賢俊僧正、また南朝復興に画策した弘真僧正、足利幕府の黒衣の宰相と義満の支持を受けた満済准后等々枚挙にいとまない。文明二年の戦火により醍醐山の堂宇が悉く消失したが豊臣秀吉の帰依を厚くし醍醐寺を中興した義演准后が、慶長三年三月有名な太閤秀吉「醍醐の花見」が行われたのを期に、ほぼ現在の伽藍に再興されたのである

上醍醐への道は険しく難所であるが、開山聖宝尊師は宇多天皇の勅を奉じて大峰山修行の道を再興し役行者(えんのぎょうじゃ)の芳躅(ほうたく)を明らかにした験者であり修験道の中興の祖と仰がれていることは忘れてはならない。現在の上醍醐から石山寺へ抜ける巡礼道も、昔は験者の往来する行者道でもあった。

醍醐水の建物を上がっていくと、現在は焼失していますが、准胝観音堂というお堂があります。

上醍醐准胝観音堂再建ご寄進のお願い  

このたび落雷が原因で全焼いたしました(2008年)西国三十三観音第十一番霊場上醍醐准胝堂のご復興に着手することになりました。この准胝堂復興に、皆々様のご信援を賜りたく、広く勧進をお願い申し上げえる次第でございます。ご寄進に関する詳細は左記の通りでございます。何卒、ご理解いただき、ご協力くださいますようお願い申し上げます。と共に、皆様のご信仰が深まりますことを心よりご祈念申し上げます。尚、現在、准胝観世音菩薩へのご参拝、西国霊場の朱印などは、下醍醐の観音堂でお受けいたしておりますので、ご参拝下さい。ご寄進要項・ご寄進は総本山醍醐寺女人堂にてお受け致します。ご寄進者のお名前は、芳名帳に記し、永くその浄心を伝えます。ご寄進者には特製の記念品を差し上げます。その他のご寄進方法は、下記へお問い合わせ下さい。お問い合わせ先 総本山 醍醐寺寺務所 〒601-1325 京都府京都市伏見区醍醐東大路町22  電話0755710002

坂を進み薬師堂へ

国宝 薬師堂   

此の堂の創立は、延喜七年で開山聖宝理源大師の時に遡るが、現在の堂は保安二年(1121)に再建なったもので、山上伽藍に於ては最古の建物で数少ない平安時代の遺構として貴重なものである。本尊薬師如来座像は脇侍の日光、月光両菩薩と共に国宝に指定されており聖空の弟子会理僧都作になるもの(と伝わるもの)で貞観後期の豪快な気分を、十分に感じさせる優美な作品である。又、歴代の聖帝が御病気の平疹を祈られる度に金箔を尊像にはり加えられた事は有名であり「箔薬師」の名で厚い信仰を集めている。

坂を登ると鐘楼があります。その先が五大堂です。

五大堂

五大堂にはかつて5つの仏像がありましたが、度重なる火事で燃えることを避けて、現在は下醍醐エリアにある霊宝館に移動されています。

五大堂

醍醐天皇御願により、延喜七年(九〇七)に建立された五大堂であるが、再建の都度に祝融にあい慶長十一年 豊臣秀頼再建の様式を伝え昭和十五年に再建されたものである。お祀りしてある不動明王、降三世夜叉明王、軍荼利夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王

国土安菱、法除不祥の御誓願をもち、”五大力さん」の通称で尊崇され、毎年二月二十三日仁王会大法要が厳修されて盗業除、災難身代りの霊符が授与されている。

如意輪堂

この堂宇は開山入師聖宝尊師が如意輪観世音菩薩を祀られた由緒深いものであるが 再三消失したが、その都度再建され現在の建物は、慶長十一年に豊臣秀頼により再建されたものであるが、その木造りは全て大阪に於いおこなわれたものである。醍醐寺新要録によれば此の堂の再建当時の美麗と、昔時の堂の簡素さがしのばれる。本尊は二腎如意輪観世音で、豊家ゆかりの女房衆の寄進になるものである。

地蔵堂

白山大権現 

平安時代前期の897年(寛平9年)に真言宗の宗祖である弘法大師・空海の孫弟子で、醍醐寺開山である理源大師(りげんだいし)・聖宝(しょうぼう)が醍醐山山上の鎮守として勧請して祀ったとも言われています。江戸時代初期に関白・豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が社殿を再建しています。

開山堂  

重要文化財 最初延喜年間に建立され次いで寛治六年(一〇九二)に改築されたが、其後二回にわたり火災にあい現在の堂宇は慶長十一年(一六〇六)豊臣秀頼の再建されたもので、雄大な桃山時代調をよく発揮した山上最大の建造物である。其の様式に於ては注意を要する点が多々あるが外観に於ては、側面前端り間の扉にここでは縁が切断されており、扉に亀腹人にまで達しておることである。堂の内内陣には、中央に開山聖宝理源大師 左に弘法大師、右に醍醐寺一世座、観僧正の像が奉安されてある。(醍醐寺)

盛開寺を開いた聖宝(しょうぼう)尊師は、延喜九年(九〇九)に遷化された。後を受けた弟子の観賛が、聖宮導師を祀るために、延喜十一年(九一一)頃に開山堂を建立した。開山堂は、その後度々火災にあったが、その都度、再建されている。現在の開山堂は、慶長十三年(一六〇八)に豊臣秀頼の寄進を受けて新築された。間口が五間、奥行きが八間、正面には軒唐破風が付く大規模な建造物である。同時に内部には宮殿・虹梁・蟇股子の透かし彫りなど慶長年間の端正で自由闊達な意匠もあり、豊臣時代を代表する建造物でもある。この再建時に、聖宝導師が祀られていた場所の地中から遺骨を収めた壺が出土しており、開山堂は、同じ場所で再建され続けてきたことが判明している。尚、現在も堂内に安置される聖宝理源大師像は、文応元年(一二六〇)の火災の後、弘長元年(一二六一)の再建時に新たに祀られた坐像であり、肖像彫刻を代表する作品であり、重要文化財に指定されている。(京都市)

撮影 ANNA Film Production 如意輪堂の横には展望台があり、現在は草木で見えづらいが大阪が見渡せるそうだ。

白河天皇皇后賢子 白河天皇皇女尊称王后提子内親王  白河天皇女尊称王后令子内親王 上醍醐陵

鳥羽天皇皇女禧子内親王墓 一、みだりに域内に立ち入らぬこと 一 魚鳥等を取らぬこと 一 竹木等と切らぬこと 宮内庁

「かみだいごのみささぎ」と読みます。白河天皇の皇后・藤原賢子(けんし)をはじめ、4名がこちらに葬られています。

上醍醐。 東山の大文字山はハイキングで大人気ですけども標高465mで、醍醐山は450mですよ。

緑をいっぱい浴びにいくのはいかがでしょうか?

Peace Nippon Galleryアーカイブ